そして、その後を引き継いだのが平田篤胤さんです。

元々平田篤胤さんは秋田藩の藩士の家に生まれたのですが、父親ともそりが合わず、秋田藩も財政難で不安定な事も重なって上京を決意したようです。

しかし、この時には本居宣長さんは既にお亡くなりになられていたようです。

お金もほとんど持ち合わせがない状態での上京だった為、雑用などの仕事をこなしながら、仏教、儒教、道教、蘭学など、様々な学問を学んでいったようですね。

ある時、勤勉でよく働くことを買われ、松山藩の平田藤兵衛篤穏さんに養子として引き取られます。その後、結婚して生活も安定して、より学問に打ち込んでいきます。

この頃に篤胤さんは本居宣長さんの思想に触れ、深く感銘を受けます。そして国学者を志すようになっていったようです。その後は塾を開きながら、多くの著書を出版し続けます。

 

「霊能真柱(たまのみはしら)」は宣長さんの「死後の世界観」とは異なる世界観を解いたもので、周囲に大きな波紋を呼びました。この著書は篤胤さん独自の世界観が明確に現れているもので、それ以降の平田篤胤さんの思想の方向を決定するのに重要なものとなりました。

篤胤さんが師と仰ぐ本居宣長さんは、従来の考え方にもあった「人は死ねば誰もが黄泉の国に行く」と考えていたようですが、篤胤さんはこの考えを全否定しました。

篤胤さんの考えとしては、「人は死ねば、その魂がどこか別世界に行ってしまうのではなく、この世界にとどまる」という考えを持っていたようですね。
そして「その霊魂は神となり、 現世に残された人たちを守る守護神のようになる」とも考えていたようです。

その後、篤胤さんはこの死後の世界観や神々の世界、または神仙などの異次元的な世界観を信じて深い探究をしていきます。