荒魂

荒魂の働きの「勇」は「争」と変ずる。「争いばかりを生む争魂」となる。

例えば、荒魂の働きの「物事を成し遂げる為にどんどん前に進んでいく力」(勇)が行き過ぎれば、「どんな事をしてでも成し遂げよう」という思いや、「何が何でも人より抜きん出よう」とする思いなどが生まれてきます。

思いが強いことは魂の力を強めることに必要だと思います。

しかし、その事に固執し過ぎてしまったり、極端に行き過ぎればどうでしょう?

「まずは自分の目的を遂行しなければ」となり、「他者のことなど構ってられない」などともなり、更には「多少の犠牲は仕方ない」とエスカレートしていくでしょう。

前に進むためには自分の主張もはっきり言わなければならない時もあります。
しかしそれが「行き過ぎる自己主張」になったり、「出しゃばりすぎること」になったり、「やりすぎる事」になったりするかもしれません。

また、人に「気付いてもらうこと」、それが「目立ちすぎて嫌味な雰囲気をかもしだしたり」、「他者を蹴落とす」などの行いも生まれてくるかもしれません。

結果、当然、他者との争いを生み出してしまいます。こういった事が「勇」は「争」と変ずる、という事かな?と思います。
要するに、荒魂は「耻る」という自省心がない時に「争」と変ずるのです。

しかし、言い換えれば、常に己自身を省みて、自分の行いなどを反省すれば、曲霊にならないという事になります。
その反省の一つが「耻る」ことだと私は思います。

例えば「〇〇さんを差し置いて出しゃばりすぎたから恥ずかしかったかな?」
「ちょっとムキになって言い過ぎて恥ずかしかったかな?」
「あれもこれも他の人の仕事まで取ってしまい、一人でやってるみたいに見えて恥ずかしかったかな?」などなど・・・・

「どうしてもやりたいこと」「どうしても欲しいもの」、こんな時は行き過ぎてしまう事が多いのではないでしょうか?

また戦後、欧米の文化や考え方、科学的アプローチや合理的で利己的な方法論などが、急速に日本の文化や人々の考えに入り込んできたように思えます。「思いこませたものが真実に見える、言いきったものが真実に聞こえる」
「言ったもん勝ち」「やったもん勝ち」「権威や脅威を感じさせ、デコレーションする」。

私も含め、そんな風潮があまり「恥」とは思えなくなってきているのかな?なんて怖さもどこかで感じていますが、どうでしょうか?

現実の問題、何かを成し遂げたり、欲しいものを手に入れたりするには頑張らなければいけないし、「どうしても・・・」とか「どんなことをしてでも・・・」と思わなければ「何事も成し遂げられないのでは?」とも思います。

しかし、自分に無理をさせ過ぎてイライラしたり、他者の事を無視し過ぎて争いが生まれることも多々あります。

頑張り過ぎてしまったりした時のブレーキも必要だという事を教えてくれます。

また、「頑張ってるな」と自分が思う時こそ、人に「頑張り過ぎじゃない?」と言われた時も、他者との「争い」の火種がくすぶっていて、それが「元も子もなくしてしまう」こともあると思っていなければいけない。

常に「押し進める荒魂の力」が発揮している時こそ「引く力」「待つ力」「戻る力」、そんな力を養っていくと同時に、「足るを知る」が必要ではないか?と、私なら考えます。

補足ですが、「足るを知る者は富む」と『老子』が言われましたが、日本では二宮尊徳翁の姿だったように感じます。