例えば、あるグループのリーダー格のA子さんが何らかの理由でB子さんに「何、あいつ」って思い、その時からA子さんはB子さんを嫌ってしまいます。
A子さんはB子さんに嫌な気持ちにさせられたので、C子さんD子さんに「最近B子って、調子にのってない?」みたいな事を話します。
C子さんは特にA子さんと仲が良く、どこか憧れの気持ちもあります。
別段、C子さんはB子さんを「調子にのってる」なんて思ってなくても、憧れの気持ちもある仲の良いA子さんが言うので、「そうそう、そういえばさ」なんて言いながら、調子にのってるであろうB子さんの記憶を引っ張り出して話します。
D子さんは「そうかな?」と思ってます。
A子さんが言います。「ちょっとの間、シカトしない?」
C子さん「そうよね」
D子さん 「えーっ、嫌だよ」と思います。
しかし、A子さんもC子さんももう既に固い決意があります、「B子を無視する」という。
A子さんもC子さんも、D子さんに無視するようにあらゆる手段を持って説得します。
よく聞く話で、またきっとよくある話なんでしょう。
その後、またB子さんがグループで皆と仲良くできれば良いんですが、それが元で学校や会社に来れなくなったり、「心の病」になったり、最悪自殺したりしたら、D子さんなら自分達が「悪い事」をしたと思いませんか?
もしかしたら心がその事実に耐えられずに、「もともと悪いのはB子よ」なんて思ってしまうかもしれませんね。
こう捉えると「親」は「悪」と変じ、悪魂となる事も、いたるところでありそうですよね?
さて、悔(く)いること。悔(くや)むこと。この「悔」で和魂(親)を補佐し、曲霊にせず「悪魂」を防ぎます。
もし、上に書いたように、D子さんが「自分達は『悪い事』をした」と本気で思えば、私は「悔」で和魂(親)を補佐したと思います。それがたとえ、A子さんであってもC子さんであってもです。本気で「悪い事をした」と思えば、その時点で「悪魂」とはならないはずです。
また、心がその事実に耐えられずに「もともと悪いのはB子よ」と言い聞かせる自分がいても、それは心のバランスをとる為です。その心と共に「悪い事」をしたという気持ちと面と向かえばよいのです。
すると「涙が出て」くるはずです。この時、解放され、「悔」を使えたと思います。
後悔することは時として大切な事ではないでしょうか。
後悔も失敗もしたことがないなんて人が「人の痛み」が解るのでしょうか?
人と交わることは「悔」がついて回るものだと知り、それでも人と交わる事を諦めなければ、「「悔」で和(親)を補佐できるようになるのではないか」と思います。
個人的には、人と関わろうが関わるまいが、どちらでもいいかとも思いますが(笑)