でも、よく考えてみれば解りますが、例えば高級車が欲しいと頑張って手に入れる。その時の購入代金だけでなく後ほどの修理費用、メンテナンス費用、全てにお金がかかってきます。
その分は稼ぎから出ています。その分余計に働かないといけない。出来るだけお金を支払いたくなければ、その分その車やメンテナンスの知識や経験を積まないといけない。当たり前の話でそんなの苦にもならないほど稼ぎや蓄えが多ければいいんでしょうが、しかし車だろうがマイホームだろうがお店だろうがビルだろうが資格や才能だろうが美しさだろうが、いずれ老朽化するし、修理やメンテナンスもいる、管理もいる、磨き続けないといけない、学び続けないといけない、色々な事がセットで付いてきます。
更にもし、そのものを持つ事で他者から認めてもらいたい、なんて思ったら自分よりいいものを持ってる人をみれば、悔しくなり、もっともっといいものをと、欲望も大きくなるでしょう。更にそれですべきことがまた増えてしまいます。
持つ人はそれなりに持たない人より本当に幸せか?って感じに思えてもくる。要するに、持てば持つほど幸せになるってのは幻想のようにも思います(笑)。
これは結果を出すこととも関係してくると思います。
だからと言って、無い事がいいとも思ってもいません。無い苦しみは味わってみないと解らないものです。
結果を出せない苦しみもとても辛いものです。行きたいとこに行けない、したいことが出来ないのも辛い。
私はまだまだ世の中、結果を得た人などが何でも言えて、「それは正しい」と付いてく人も多いと思います。
同時に私のようにそれは「その人の世界の正しさや幸せ」であって「私の世界の幸せとは何も関係ないよな?」なんて思う人も増えてきたとも思います。
結果ばかりに目が向き、結果を手に入れたければ、論理性や合理性、具体性や表現力、発想力などが必要でしょう。しかしその才能がない人もいます。「それでも頑張れば出来る。私のように頑張れ」は違うような気もします。
どんな生き方をしたとしても、人は何でも飽きる事も嫌になることもある。他がよく見えてくることもあるでしょう。
それで飽きて次はこれ、次はこれと再現なく移り気になればなるほど迷子になってしまいます。自由を追い求めて逆に縛られて苦しくなってしまうかもしれません。
要するに、持とうが持たなかろうが、結果を出そうが出すまいが、どんなライフスタイルを送ろうが、幸せは「それを苦しんでやってるのか?楽しんでやっているのか?」「苦しくても好きだからやってるのか?」「嫌でもやってたら好きになってしまったのか?」その過程に何を感じてどんな宝物を見つけられるのか?そんな事ではないのか?なんて、ぼんやり爺になって思えるようになりました。作文だなこれ(笑)